生きること
片付けをしていたら若い頃何人かの友達と写った写真が出てきました。
数年前に亡くなった人が笑っています。最後に会ったのはいつだったか、あの頃はおんなじ時間が永遠に続くような気がしてたから、ろくに挨拶もせず別れたのでしょう。
亡くなったことは自死という事情もあって、かなり後になって知らされましたが。その時、心がポコっと音を立てたような空虚な感覚は忘れられません。
この歳になると周りには他にも生きるのを自らの手で中断した人が何人かいます。
残された人はいつまで経っても、
なんでかなぁなんでかなぁどうにかならんかったのかなぁ生きていたら今年で何歳でどうしてたかなぁ・・・
という無限ループに落ち入ります。
わたしと、逝ってしまった彼らがどう違うかというと、
どこも変わらないと思います。
わたしなんか毎日、ああ死にたい、と思う瞬間があります。
というより、ああ消えたい、か。
苦難のときはまだしも、何かあったわけではなくても、です。
瞬間ですけどね、まじです。
ほかの人はどうなのかな。
ただ、こんなことを言ってるまさにこのとき、窓の外にでっかい怪獣が現れて窓を叩き割って腕を伸ばしてきたとしたら(想定が変ですか)、身を翻して絶対逃げます。それは本能ですが、それなら余計に生物としての自分は本当は生きることを選んでいることになります。
生きるって、はたから見ると線に見えるけど、実は誰にとっても無数の点々の連続なんだなあと最近思うんです。
この瞬間の点を打って、その次、その次・・・、ここまで来れたらまた1個打ってみようって。
歪んでいてもかすれていても、なんか点を打てばいい。ただ、途切らせちゃいけない、続けようと思い直す繰り返し。
それを後から見たら立派な線になってるならいいですよね。
生きてればいいことがある!とか言うのは無責任です。「いいこと」はない、かもしれないのですが、
自分で作れる可能性はあります。可能性すらなくても、とにかく1ミリ先でも点を打ち続けましょう。
ありがたいことに生きとし生けるもの、100%の致死率ですから、与えられた時間の中、不器用でも瞬間瞬間の点々を途切れないようにつないでラストまで自分にしか描けない絵を描き続けられたら、もういいでしょ、むしろ多分そのために生まれたのではないでしょうか。
辛い思いにとらわれ、ふっと点を打つ手を止めたい気分にとらわれたとき、わたしは、これは心ではなく脳みそのなせるワザなんだからと自分に言い聞かせやり過ごします。
些細なことですけどわたしなりのコツがあります。
技術は人によってもいろいろありそうですが、
その繰り返しです。
足るを知る
朝、コーヒーを淹れて飲もうとしていたら、夫が部屋に入ってくるなり、
「いい匂いだなぁ〜。」
と声を上げました。とっても幸せそうな声でした。
が、私は
そう?
(私にはいつものコーヒーなんだが)
と。
て、いうか、
別になにも感じない。
ふつう。
夫は犬みたいに鼻をクンクンさせて「豆、変えた?」とか嬉しそうに言っています。
この人は以前ひどい皮膚疾患を発症して以来、思い当たるアレルゲンを全部避けて生活しているので、今は大好きだったコーヒーも控えているんです。
普段から焦がれる気持ちもあって、淹れたてのコーヒーに出くわすと香りだけで高揚するのでしょう。
かたや私はカフェイン依存症で、朝起きたら立て続けに2杯、食事が終わるごとに1杯、外出から帰って1杯、本やネットを見ながら1杯と、考えたら最低でも一日6杯は飲んでいます。
たまに忙しくて飲まないでいると頭痛がしてくるし、カフェインが抜ける間がないから眠りも短くて浅い。自覚のあるカフェインジャンキーです。
香りだけで歓声を上げるあなたを横目に惰性で毎日コーヒーを流し込んでる私って大した「コーヒー好き」だよね、と夫の顔を見ながら思いました。
幸せな気分になるためにコーヒー飲んでるつもりの私より、飲めない人のほうが匂いだけで幸せそうにしてるってなんなんだろう。
歳をとった今、越し方を振り返ってみると、私はいつも、あとちょっと、というくらいのときが一番喜びを感じていました。満たされてしまったら面白くなくなるんです。
あんた、また忘れてたな、
身をもって得たはずのこの人生の法則。
欲しいな〜と思う気持ちがなければダメなんだよ、たっぷり、なんて要らないんだよ、
とどこからか声がします。
6杯のコーヒーより1杯のコーヒーを大事においしく味わえる、
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
と思った朝でした。
フクロウに取り憑かれた人
"We got the problem! Somebody in this house is possessed by an owl."
"Who?"
「大変だ、この家にフクロウに取り憑かれてるヤツがいる」
「誰?」
っていうギャグ、知ってますか?
「フクロウに取り憑かれてる奴がいる」
「誰?」
って・・・。
これだけで充分おかしい様子。
え?
(1.5秒経過)
・・・ああ〜!!
誰が?と聞き返した本人が"Who?(=Hoot)"と、フクロウの鳴き声で返して、のり移られた人ということになってしまうひっかけですね。
私が知らなかっただけなのか、英語圏の人が3年くらい前からいろんなパターンの動画をあげているみたいですが、今だに面白がられてるギャグのようです。
く、くだらね〜!!
ヒマか!
・・・けど嫌いじゃないんですよね。
この程度のギャグで大笑いしていた昭和の子ども時代を思い出しました。
竹輪の友
「ちくわ」。
改めてこうして書いてみたり、声に出してみたりするとかわいい。
そんなことはどうでもいいのですが、
この数年、ちくわは私のオイルフリーの食生活を応援してくれる力強いバディでした。
でも、これまでのように親しい存在ではなくなるのかも、という話です。
そもそもこの「ちくわ」、今の食生活に入るに際にドクターから勧められた食材でした。脂質がなくてタンパク質が多い。
最初は「なぜちくわ?」と心の中で笑っていました。「かまぼこじゃダメなんですか」と。
ところが、つき合っていく日々の中で、ああ、なるほど、と実感。ちくわの世界の奥深さに気づいたのでした。
腹減ったな〜と冷蔵庫を覗いた時、目に入るものがかまぼこしかなかったら、なんもない、と諦めそうなところ、それがちくわであった場合、優雅にハンディな1本を取り上げ、次の食事までのひとときをやり過ごすことができる、ちくわにはそんなカジュアルさがあるんです。
・・・ま、そんなことどうでもいいかもしれませんが、
ちくわには焼き目がある。これがまたすぐれたポイントだと思うんです。
ちくわの表面の虎紋のコゲコゲが口中に食感や風味のメリハリをもたらし単調になりにくいんです。焼き目のデコボコにも衣や煮汁が絡みやすいため、揚げ物や煮物としても展開しやすい素材なのだと思います。
・・・ま、そんなこともどうでもいいかもしれませんが、
さらに、ちくわのすごいところは、中に空洞があるってことです。
竹の筒に魚のすり身を絡ませグルグル炙ってみた先人は、まさか後世の人が、竹を抜き去ったあとに様々なものを詰め込んで楽しむなんてことは想定してなかったことでしょう。
こんな私もきゅうり、セロリ、人参、パプリカ、ネギ、といろんなものを突っ込み、風味だけでなく目でもサラダ感覚を楽しんできました。
ちくわ、
ポテンシャル、ハンパないやつ。
好きでも嫌いでもなかったちくわが、気づくと単調になりがちな私の脱脂生活に寄り添ってくれている大事な存在となっていたわけです。
けれど、こんなちくわと私の蜜月もこれまでか、ついに厳しい現実に見舞われることとなってしまいました。
一昨日、スーパーでいつものお気に入りのやつを求めようとしたところ、
あれ?
(目ゴシゴシ・・・)
・・・従来の3割弱高いお値段がついてます。
練りもの圏の他の商品が自らのサイズを縮めることで価格を死守する中、私のお気に入りである無添加、減塩のちくわは堂々と値上げの道を選びとっておるのです。
き、きついなあ・・・、
もう今までみたいに毎日気軽に会えないかもしれないよ。
とはいえ、
何もかも値上がりして大変な中、このメーカーさんだって今まで踏ん張って供給してくれたのだろう。
わかった。
今日は帰るけど、また必要な時は会いに来るからよろしく。
今までがんばってくれてありがとう、
ちくわの友よ。
これから生活はこんな感じでジワジワと締め付けられていく一方なのでしょうか、
きっとそうなんでしょうね。
ない知恵を絞って工夫を重ねるしかありません。
(涙目)
映画『象は静かに座っている』
2018年のこの作品を私はAmazonPrimeのおススメに上がってくるまで知りませんでしたが、見終わって今、この作品を大切に思っている人たちがたくさんいることに納得しています。
この10年近く鬱っぽかった私は、どんどん強権的になっていく中国という国の映画に食指が動かなくて、見たとしても民国時代の他愛ないもの、武侠もの、昔のおバカなコメディとかばかりだったのですが、この映画の数々書きこまれたレビューにふと感じるものがあって、久しぶりにちょっと見てみる気になったのです。
約4時間という長さ(これこそが作品が世に出るまでのネックになっていたことを後から知りました)にもかかわらず、途中で落伍することも多い私がノンストップで見切ってしまいました。
知らずにいた食わず嫌いの日々を後悔しています。
描かれているのは間違いなく現代中国なのですが、比喩とか対比がたくさん仕込まれている寓話のようでもあり、反芻して後からいろんな味がしてきます。
産業の不振で衰退していく街が舞台です。画面から伝わってくるのは不安、無力感、焦燥感。
作品の途中、街の一角に貼られたポスターが一瞬映ります。最果ての街、満州里(マンチュリ)のサーカス団のお知らせです。
大きな象のことは書かれているようですが、カメラもあんまりはっきり見せる気がなさそうでよくわからない。動画の強みで画面を止めてチェックしてもあんまりよくわからない。
目を凝らしてみても夢の中のできごとのように掴みどころがないこの感じは、この作品の至る所に出てきます。
描かれるのは、絶望感に潰されそうな登場人物たちがずーっと座って動かない、よく分からない象を見に行こうとする一日です。
象に思いを馳せる人、4人。
①ヤクザの青年
チンピラの舎弟を侍らせ良からぬ稼業をしてるようです。イキったファッションで虚勢をはっていますが、ものすごくナイーブで、カタギの人のほうがよっぽどヤバい気さえします。孤独な人なのです。
親友の妻と浮気をしていた現場で彼に自殺されてしまったのも、心から求める女性から拒絶されヤケになってしまった末の悲劇です。
②17歳の少年
朝から大酒を飲んで荒れる父親のいる家を飛び出した後、心の頼みの祖母を訪ね、孤独死している彼女を発見します。
さらにはその日、盗みの嫌疑をかけられた親友を守ろうとして不良のリーダーと言い争う中、事故で相手が死んでしまいます。
またさらに、そこまでして庇った友人が嘘をついていたという事実を知り絶望感は限界に。
満州里のサーカスにわずかな希望を託し、少女を誘います。
③17歳の少女
シングルマザーの母親は娘との生活を維持するため必死に働いていますが、パワハラ、セクハラでストレスまみれの日常です。家の中はぐちゃぐちゃで娘が心から欲しているものを考える余裕もありません。
娘は混乱する日常を逃れ、居場所を求め妻子ある教師のクリーンな別宅で現実逃避する日々だったのですが、二人の画像がこの日、SNSで拡散されてしまい、教師の妻が夫を連れて自宅に怒鳴りこんできます。
自分の立場ばかり主張して罵り合う大人たちの姿にキレた彼女は教師夫婦の頭をバットで殴り飛ばし、立ち尽くす母親をあとに家を飛び出します。
④元軍人の老人
娘夫婦、孫娘と暮らしていますが、自分のアパートだというのになんだかベランダに増設したような変な空間をあてがわれ、そこで小型犬と身を寄せ合って寝起きしているような肩身の狭さです。娘の夫は、子どもの教育のためもっと広くていい環境のアパートに引っ越したいから悪いけどお父さんは老人ホームへ行ってください、と催促してくる。砂を噛むような日々に耐えられるのも可愛がってる小さな犬と一緒だったからなんですが、それもある日、街をうろついていた大きな犬に噛まれて死んでしまう。大切な存在を失い気を落とした彼は老人ホームを見学してみますが、そこは生き続けるための場所には思えない、死への待合室のようです。
少年から誘われ若い頃勤務したことのある満州里に心が動きます。
・・・・・・・・・・・・
ヤクザの弟というのが少年が誤って死なせてしまった不良、老人は少年と同じアパートの顔見知り、少女は彼が思いを寄せている相手、という具合に登場人物たちは少年を中心に皆、繋がっています。
死んだ友達から象の話を聞いていたヤクザは罪悪感や孤独から逃れるため象の存在を確かめに行こうとするのですが、その直前に少年の友人の放った銃弾で脚を負傷してしまい、希望を絶たれてしまいます。
少年、少女、老人+幼い孫娘(⁉︎)は、満州里への切符を手に入れますが、汽車が運休という不運に見舞われます。バスに切り替えてもそれは途中までしか行くことができないらしく、ここで気をくじかれた老人が、俺は行かない、結局はここに留まって周りに合わせることを学ぶほうが利口だ、みたいなことを言い出すのです。
が、少年はそれを跳ねつけ、きっぱりと言います、
「行くんだ」。
そうして4人は闇夜の中、不確実な未来に向かって踏み出すことになるのです。
ラストは途中の休憩地で彼らが羽根蹴りをするシーンです。
息抜きの遊びの場面にも見えますが、少年が少女に向かって、満州里に行ったらサーカスで羽蹴りの仕事(⁉︎)でもするさ、と語っていた場面が思い出されます。
(その羽根もどこで手に入れたものなのかを考えると、また物語の立体感が増してきます)
バスのライトの灯りの中、不器用に羽根蹴りをする彼らの小さな姿が映されます。
落ちた羽根を何度も何度も拾い上げ、またやり直す。静かな愛おしいシーンです。
と、そこへ突然、象(?)の咆哮が鳴り響きます。
!!!?
みんなの動きが止まり、
「大象席地而坐」(象は静かに座っている)
の文字が現れ映画は終わります。
バンド花倫(ホアルン)による音楽もこの作品の大きな構成要素です。先日亡くなった坂本龍一さんもこの作品が作り上げている世界観に魅了されて言葉を寄せておられましたね。
中国とか中国映画に関心がない方にも是非、一度見ていただきたい。
そっと仕込まれた場面や比喩などはまだまだありそうです。また気づいたら書き足していこうと思っています。
公開前に自死した胡波(フー・ポー)監督が胡遷(フー・チエン)というペンネームで書いた小説集『大裂』。
書かれたエピソードは映画とリンクしている部分もあるようです。
近いうちに読んでみたいと思っています。
端的に言って、幸せ
今日の夕ごはん何にしようかなあとソファにひっくり返ってスマホをいじっていたら、
三浦瑠麗さんのインスタがまさかの更新とあり、ギクリ。
夕食のチリコンカンなどの画像に、
スーパーに買い出しに行った帰り、重い紙袋を娘さんが持ってくれたというエピソードを添えて
「なぜこんないい子が育ったのかわからない」
って・・・・・・、
こわいよ、
子どもさんのことをなんで書くかなあ。
やはり異次元の人なのか。
それはさておき、
瑠璃さんちのチリコンカン、
眺めていたら降りてきたものがありました!
「・・・・・・うちに、豆があったな!!」
※訳あり 1kg 送料込み¥1298
「北海道産 大正金時豆 色流れ
ーー見た目の差はあれど味の差はなし」
ふっ、剣豪か。
三浦家もすなるチリコンカンに今宵、我が家も舌鼓を打ってみようではないか。
運よきことに肉以外の材料は全て揃っておる、
肉さえ手に入れれば今夜は我が家も分限者気分じゃ!!
いざ、スーパーへ!!
できました・・・・・・・・・。
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ワインじゃないの、焼酎なのよー。
ブルーの器は三浦家も御用達の保養地のお宿で昔、買ったものなのよ、欠けているけどね。
新たまスライスを朱塗りのお椀に盛ったり変なことしているのには理由があるんだから、そっとしといて。
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ミンチ肉だと脂が入ってしまうので、豚モモの赤身ブロックを細切れにして使いました。
他に使ったのは下茹でした豆、ニンニク、クミン、オレガノ、チリパウダー、トマト缶と塩だけ。
ネットのレシピを参考にしながら油を使わず作りましたが、これで私には充分おいしかったです。
かつて私は料理において足し算ばかりしてまいりましたが、最近は引き算が好きです。
いつもはポン酢がけのサラダも今日は塩だけにしました。
まー、つましい食卓ですが、
今の私には手元にすでにあるものを活かし切る工夫こそが暮らしの醍醐味、ひいては人生の喜び。
誰かに負目があるわけじゃないし、これは私が言わなきゃいけないセリフです。
「端的に言って、幸せ過ぎる。」
オイルフリーのごはん
食事に油脂を加えないことを始めてもう3年くらいでしょうか。
普通体型であった私がこれを始めたそもそもの目的は、ダイエットとかではなく体の不都合の治療です。
大病治療の影響でドミノ式にいろんな箇所に傷みが生じたとでも言いましょうか、今は循環器系のお掃除が必要なのです。
11時に朝昼を兼ねた食事を摂ります。
毎日こんなものを食べる私の家には揚げ物用の油もマヨネーズ、ドレッシング類もバター、チーズもありません。
ときどき風味づけに2、3滴欲しい時があるので小さな瓶入りオリーブオイルとごま油がキッチンの引き出しに入れてありますが、それも無くなる前に賞味期限を迎えしまうので買った時から途中で廃棄する運命のものです。
もともと油っこいものがそんなに好きなわけではなかったけれども、食べるのは大好きで若い頃から飲んだり食べたりに惜しまずお金を使ってきました。
けど、3年前から家で食べるのはだいたいこんな感じです。
油抜き…、食べるのもだけど、作るのも無理〜!って感じでしたけど、結構簡単で、ひと月くらいで慣れちゃいました。野菜が大好きなのもあって苦じゃないんでしょうか。
ビンボーくさいですかね、
ほんとにビンボーなのもありますんで、なんも言えないですけど(笑)
一日2食なので、夜はこれにオイル無しで調理したお肉か魚、それに2品ほどおかずが増えるくらいです。
体の状態は人それぞれですし、こういう極端なのが正解だとは思いませんが、一つ言えるのは
「世の中、油脂使いすぎ」。
この食生活を始めて体重は当然減りましたが、測ってみると3kgくらいなもの。
でもスリムになった感がかなり強いです。
それはお腹周りの脂肪からまずごっそりなくなったからだと思います。
体調とともに肌の調子も良く、タンパク質の摂取を意識してるのもあるのか、シワシワになったりもしてません。
食材の中にはすでに、ある程度の脂質はあるということです。
まあ、治療のため始めた食生活、今のところこんな感想を持っています。
これが今後も正解かというのはわかりませんが、今のところ私が実践していることです。